明日はアメリカのフード本社執行副社長に栄転するというその日、二時間ばかりインタビューに応じてくれた。
まさに豪放にして細心、質問しているあいだ、本田宗一郎さんを思い出していた。
彼もまた、野武士だった。
九九年からフードの社長CEOとして采配をふるっているので、フードはさらに野武士カラーを強めていこう。
ビッグスリーの取材を終えた私は、その足でヨーロッパの自動車企業に飛んだ。
ここも一国一週間の取材予定だった。
アメリカの企業とは、まったくちがう印象だった。
どこがどのようにちがい、これが三〇年後にどう変容し、二一性紀にどう対応しえているか。
いま他界の自動車企業は、文字通り時空を超えて激烈な生き残り戦略を展開している。
それは、まさしく自動車の葛藤「車間」といえるものだった。
それは、次章以下でご報告する。
私の初海外取材から三〇年が過ぎた。
世界の自動車産業レースは、何代目かの走者(経営者)が懸命に走っていながら、いっこうに勝者の姿がみえてこない。
最大の要因は、合併、合弁、資本提携など、国際再編劇がたえまなく起きているからである。
一例をあげよう。
二一世紀を目前にして、世界の主要各社はつぎのような課題に直面している。
年三四%、そして九八年二九%と、漸減の一途をたどっている。
九九年には三二%を目標に必死の努力。
はたして世界一位の栄光がたもてるか、これが課題。
寒フードロッマン前会長が策定した「フードCSIOOO計画」は一年早めて完成。
税引後純益では、いま世界一位(九七年六九億ドル、九八年六一億ドル)。
九九年一月、B社乗用車部門買収。
あと二一世紀技術への挑戦が課題。
国内シェア四〇%を志向。
電気自動車、ハイブリッド皐などのせ界環境車商品化レースでは、世界でトップ・クラスに躍り出る。
新社長に張氏登場。
関連子会社を集結する動きが活発化。
時価総額(九九年三月二九日現在)世界一の威力の活かし方が課題。
どこを企業の個性とするかが課題。
かつて少量高級セダン・メーカーから、いまやMクラス、Aクラス(ミニバン)、スマー(ミニカー)と最大級激戦市場へと参入へ完全にグローバル企業戦略を転換する。
あとは、東南アジア、東欧にどう進出するかが課題。
日本二位の日産自動車の株式三六・八%、日産ディーゼルの株式二二・五%を取得、いっきょに世界戦略を展開する地盤をつくりあげた。
ヨーロッパでもっとも果敢に体質改善をはかっている企業のひとつ。
たとえば、九八年一月に三年間で四〇〇〇億円のコスト・ダウンをはかるオプティマ計画を発表した。
問題は、日産の長所をいかに引き出すかが課題。
九七年四月就任の新社長が、従来の少量生産経営から大量生産主義に転換すると宣言してまもなく 、自動車部門売却を宣言、九九年一月、フードに約七八〇〇億円で売却した。
B社本体はその資金でスウェーデンのスカニア、アメリカのナビスターの買収を計画、性界一の商用車メーカーをめざしている。
ただし、商業車メーカーとしてグローバル化にめざめた各社が、どこまでB社に協力するかが課題。
スカニアはVWもねらってる。
これらの激変に共通している要因は、すべて二一世紀に生き残るための危機意識である。
その典型的な実例が、九八年のダイムラー・ベンツとC社大合併であった。
これはしかし、世界の自動車産業が抱いている危機感からすれば、ほんの氷山の一角でしかない。
その水面下には、想像を絶する構がうごめいている。
ここでは、世界再編劇の点火剤となったダイムラーC社大合併の内幕と背景を徹底的に検証してみよう。
ここには、現代の他界自動車産業が抱える危機感が、典型的に語られていると思うからで一九九八年五月六日、私は世界自動車産業の変容を書きとどめておため、那須の山荘にこもっていた。
久しぶりに静かな空気のなかで、その構想を練ろうとした矢先だった。
突然、電話が鳴った。
午後三時ごろだったろうか。
共同通信の記者からであった。
「もしもし、じつはたったいま、ドイツのダイムラー・ベンツとアメリカのC社が合併交渉をすすめているという情報がはいったのですが、どうご覧になりますか」電話の向こうの声は、こころなしか、興奮ぎみであった。
それを聞いている私自身も、記者の興奮がそのまま伝わっている思いだった。
これが私の聞いたダイムラーC社大合併の一報であった。
もし実現すれば、売上高(九七年)で世界の自動車会社として三位(C社だけでは五位)、販売台数電話のあと、この衝撃的なニュースは、わたしの脳裏をなかなか離れなかった。
というより、その直後から新聞といわず、テレビといわず、取材でわたしは電話に張りつけにさせられた。
これらの情報は、どうも五月六日付『ウール・ストリー・ジャーナル』(欧州版)記事が発信地であるらしかった。
その日の夜、NHKは七時のニュースのトップで、両社は合併に向けて交渉中であると伝えた。
そのころ、ドイツは午前十時、当事者は正式発に向けて、急ピッチで準備をすすめていた。
発会場はロンドンのドチェスター・ホテル、ダイムラー側からはシュレンプ会長、C社側からはR・イン会長が出席した。
イギリス時間で、夜の一〇時三〇分だった。
長い一日半であった。
じっは、この合併ドラマには、これまで一編の序曲と三碁の舞台があった。
これを注意探観劇していた観客には、その最終碁はあるていど類推できたかもしれなかった。
その序曲とは、オーストリアのクラーグ市が舞台であった。
ここに、マグナ・シュタイア・ダイムラー・プフという、おそろしく長い名前の商用車メーカーがある。
社名からもわかるように、ここはダイムラーの合弁会社である。
こことC社は、ユーロスターEuroStar)という合弁会社を作った。
意味は、「ヨーロッパのスター」という夢のある会社である。
この会社の車種が、C社のベストセラー、グランド・チェロキーであった。
九四年から生産にはいっていた。
同時に、ダイムラーは、Eクラスのステーション・ワゴン、ゲレンデバーゲンを生産委託、後者はプフクラスのブランドとしても販売されていた。
こんぜんつまり、ダイムラーとC社とでは、プフが揮然一体となって商用車の生産・販売をつづけてきた。
ただ、これはあまで、まだ大合併にめざめる前の話であって、今回の大英断とは、直接的な関係はまったくなかった。
だから、序曲なのである。
本番は、このあとに開幕する。
ラーは創業以来の大赤字を計上していた。
再編成どころのさわぎではない。
あわや倒産というところまでも追い込まれていたのである。ということは、ダイムラーにすれば、願ってもない買い場だった。
ただそれを強行すればアメリカ企業がドイツ企業に屈服した、という世論にもなりかねなかった。
それは、ダイムラーとしても、もっとも神経質になるところであった。
げんに、後半、合併が具体化したときの最初の株主総会で、「私の肉親が二次世界大戦でドイツ軍に殺された」ということを訴える老婆もいたのである。
南米での事業で、その戦略を拡大しょうとしていた。
そのために、大型合弁事業もひとつの重要な選択だった。
これは、ダイムラー側が乗り気だった。
今回の大合併の立役者であるシュレンプ氏が、ダイムラー・ベンツ社長に就任したばかりのことであった(九五年五月)。
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